平均年齢、平均体重、平均身長、平均学歴、平均年収、平均寿命・・・
私たちの頭の中は、知らないうちに「平均〇〇」という基準で埋め尽くされています。この非常に根深い「平均」という基準をもとに判断し、一喜一憂することも多いでしょう。

子育てについて言えば、この「平均」という思考に囚われすぎると、子どもの成長に悪影響を及ぼしかねません。

平均という名のランク付け

平均値という一つのラインが引かれると、平均以上と平均以下という2つのエリアに分かれることになります。自分は平均以上なのか、それとも平均以下なのか、あの子は平均以上なのか、それとも平均以下なのか。平均より上だとなんか安心し、平均より下だとなんか不安になってしまうものです。

自分自身を評価する場合も、他人を評価する場合も、このラインの上か下かで評価することが、驚くほど多いことに気づきます。無意識に、あらゆる物事の判断基準になってしまっているのです。そして、さらにグループ内で細かな平均的指標が設けられ、ランク付けされていくのです。

前提として、平均的な考えや指標が無意味かといえば全くそんなことはありません。均一化、標準化というのが戦後の経済発展、社会発展において重要な要素であったことは間違いないでしょう。近年では、これまで見えてこなかった問題が浮き彫りになり、問題意識を提起してきました。格差問題などはその典型だと言えます。

ここで立ち止まって考えたいのは、何らかの「平均」を持ち出して、個人を評価したり、判断したりする際に、その平均が何を意味しているのか、本当に意味のある値なのかということです。

よく物事をわかりやすくするため、全体から平均値を割り出し、それに基づいて個人と比較しようとします。あなたは平均と比較してどうなのかと。だが平均値というのは、様々な要素がある中で、あくまでその時の一時的な指標や一側面の指標でしかありません。また、私たちは情報の受け手として、その平均値の背後にある様々な条件を、正確かつ適正に判断することは、なかなかできないものなのです。

よく「平均のお小遣いはいくら?」みたいなアンケートが載っていたりします。みんないくらもらってるのかな~と、気軽に見ていると楽しいものです。

ただその結果は、何人を対象にしたのか、どんな年齢層を対象にしたのか、男女比はどうだったのか、どこの地域なのか、無作為に選んだのか、所得の差は考慮しているのか、嘘をついている可能性はないのか、もらっていない人や高額な人の扱いはどうしたのか・・など、前提条件いかんで、その小遣いの平均金額がどれほどの意味を持つのかよくわからなくなってきます。前提条件が自分の状況とドンピシャであればいいのですが、前提条件が全く異なるのであれば、自分と比べてもあまり価値がないように思えます。

さらに平均値というのは、過去のデータを基にしています。
職業別平均年収ランキングみたいなものが話題になりますが、感のいい人ならこの平均値があまり意味をなさないことは、もうお分かりだと思います。

過去が大体そうだったというだけで、今から社会に出ていく人はあまり参考にしないほうがいいように感じてしまいます。これから先の未来、そもそもその職業自体が存在しているのか分からないし、全く新しい職業がたくさん生まれていることでしょう。また、たった一つの職業だけに従事するという人は、これからどんどん減っていくだろうし、更に言えば、お金の価値も大きく変わってしまっているかもしれません。

ただ平均年収が高そうな職業に就きたいというだけで判断すると、将来を台無しにしてしまうかもしれません。運良く入れたとしても、その人の能力が低ければ平均以上の収入を得られるかどうかもさっぱりわかりません。

平均以上の人は優秀なのか?

平均より良い成績を残す人は、なんとなく他の分野や事柄でも、優秀な印象を持ってしまいます。しかし現実の個人の才能や特性は、多面的で、状況や環境によって大きく変わるのものです。
その為、ある指標で平均より優秀だと評価できても、その能力がそのまま別の状況でも同じように発揮されるとは限りません。

NBAデトロイド・ピストンズのスター選手だったアイザイア・トーマス(Isiah Thomas) 氏は、2003年にニューヨーク・ニックスのバスケットボール部門の社長に就任します。トーマスは、ニックスの潤沢な資金で、チームの再編を大胆に進めていきました。

説明するまでもなくバスケットボールの試合では、相手チームより多く得点したほうが勝利します。ということはどのチームよりも、自分のチームの平均得点が高くなれば優勝できるとトーマスは考えました。選手を獲得する際の最も重要な要素として、平均得点の高い選手を集めることにしたのです。

その結果、どのチームよりも平均得点の合計が高い理想のチームが出来上がりました。これで優勝は間違いないだろうと思われましたが、シーズンが始まると大きく負け越し、散々な結果となってしまうのでした。

これは、プレイヤーの一側面だけを評価して採用すると失敗するという象徴的な例ではないでしょうか。バスケットボールなどのチーム競技では、それぞれの役割があり、それぞれの才能が重なり合うことで、チーム全体の強さとなります。平均以上の得点をあげるだけの得点力は、そうした他の選手との連携があってのこと。案の定、ディフェンスが疎かになり、重視した得点力も、それぞれの選手が自分でシュートを打つことに執着したため上手くいかなかったそうです。

学校や職場でも同じです。仲間とチームや集団で活動する場合、それぞれ適した役割があるものです。

GoogleやMicrosoftといった世界を代表するIT企業も、以前までSAT(大学進学適性試験)の得点や、GPA(大学の成績評価指標)のスコアを、非常に重視する採用方法を行っていました。一流大学出身のエリートたちばかりが集まりましたが、採用後、期待するほどの成果が出なかったそうです。
当初の採用方法では適切に個人の能力を判断できないと結論づけ、現在では面接を重視した独自の採用方法を行っています。

平均は”正しい”という幻想

平均思考は捨てなさい」に、とても興味深いエピソードが書かれています。

1940年代のアメリカ空軍。なぜか飛行機を飛ばすたびに、墜落事故を起こしてしまう。技術者たちは、エンジンのトラブルや電気系統など、飛行機に問題がないことを何度も確認しても結果は変わりません。未熟な操縦士ばかりだったのではないかというと、そんなことはありませんでした。十分な訓練を受けた優秀なパイロットばかりです。

これだという原因がわからない中、コックピットそのものの設計に疑問が持たれました。
1926年に設計されたコックピットは、何百人ものパイロットの身体のサイズの平均を基に設計されていたのです。

古い設計であるためパイロットの体格が変わってきており、現在のパイロットに合わなくなってしまっているではないかと考え、4000人を超えるパイロットの身体のあらゆるサイズを計測し直すことになりました。4000人から集めたデータの中から、身長や腕の長さなど重要な項目10箇所を基に、新たなコックピットの設計にふさわしいサイズの平均値を割り出したのです。

導き出された平均値の前後30%以内であれば、そのパイロットはおよそ平均的だと判断することとしました。そして誰もが、空軍のパイロットたちの多くが、この平均値の前後30%の範囲に収まるものだと思っていました。しかし・・・採用した10項目全てにおいて平均の範囲に収まったパイロットは、なんと1人もいなかったのです。すなわち4000人から導き出された平均を基に設計されたコックピットは、誰にも合わないコックピットだったのです。

この出来事の教訓から、現在の自動車でも当たり前になっている調整可能なシートやハンドルが採用されるようになったといいます。
ありもしない理想の平均に個人が合わせるのではなく、ハード側が多様な個人に合わせる仕組みが必要だったのです。

状況によって変化する平均

平均主義的なものの見方をする場合、個人の評価を見誤る可能性が見えてきました。そして人間の成長過程においても、置かれた状況に大きく左右されます。

赤ちゃんがハイハイを始める時期は、平均的に生後8ヶ月頃とされています。もちろん個人差があるので、前後数ヶ月程度の違いはあるでしょう。
通常、赤ちゃんは腹ばいからハイハイを経て、歩きだすとされていますが、全くハイハイの時期を経ずに歩き出す場合があります。

パプワニューギニアの先住民のアウ族の赤ちゃんは、全くハイハイをしないといいます。人類学者デイヴィッド・トレーサー(David Tracer)氏の研究によると、アウ族の赤ちゃんはスリングで75%の時間を抱っこされているそうです。これは、地面にうつ伏せの状態で赤ちゃんをおくと、寄生虫や病原菌に感染してしまうことを母親がよく理解しているからだと言います。
その結果、通常どんな赤ちゃんでも必要と考えられていたハイハイの時期を経ずに、時期が来れば自立歩行するのでした。日本でも欧米諸国でも、一般的にハイハイを経て自立歩行できるようになるのが正常な発育であり、それを前提に平均時期を出しています。この平均値は間違っているわけではありませんが、どんな場合にも当てはまるわけではないのです。文化的背景や環境が違えば、いくらでも変わってしまうものだということになります。

私達は統計的に集められたデータの平均値というのは、とても信憑性の高いもので、絶対的なものだと鵜呑みにしがちです。常にその背後にある条件や前提を意識していないと、自分のケースが平均的なケースなのかどうか判断できなくなってしまいます。

平均より”早い”ことは良いこと?

平均より「早い」というのも、能力が高いとみなされることが多くあります。
高校で習う数学の問題を、小学生ですでに解いている。幼稚園で九九を全部暗唱できる。1時間のテストにおいて、30分ですべて解ける子は、1時間かかった子よりも優れていると判断されます。当然、試験では制限時間があるので早く解けた方が得だとされますが、早くできることが総じて優秀であると言えるのでしょうか。

1970年代から80年代に、教育学者のベンジャミン・ブルーム氏がひとつの答えを出してくれています。
ある教材を学習するために、全体として教材を学ぶ時間は同じですが、学ぶペースの違う2つのグループに分けて学習させました。「一定の決められたペース」で学ぶグループと「自分のペース」で学ぶグループの2つです。最終的なテストで85%以上の正答率だった者を成績優秀者としました。

学ぶ合計時間は同じにもかかわらず、最終的なテストでの成績優秀者は「一定のペースグループ」で全体の20%、「自分のペースグループ」では実に全体の90%の生徒が成績優秀者となりました。

学習というのはそれぞれ個人にあったペースがあり、学ぶ内容の得意不得意があります。当たり前のことと思われますが、私たちは人より早く知っていることや早くできることを、絶対的に良いことだと捉えすぎています。遅い子に能力がないわけではないのです。
急かすことや焦らすことで、その子に「自分はできない」というイメージを抱かせているだけになっていないか、問いかけねばなりません。

平均との付き合い方

私たちは、個性が大切だと言いながら、いつも平均を気にしてきました。だからテストの平均点が気になるし、ニュースで「平均〇〇」と言われると、ついつい気になってしまいます。自分は平均と比べてどうなんだろうと・・・

「総中流社会」という言葉がありましたが、自分は平均的な生活水準なんだという一種の自己満足感を、高度経済成長期が満たしてくれただけだったのではないか。
「レールから外れる」なんて言葉も、平均主義的な考えを表現したものだと感じます。レールとはまさに、皆が良しと思う平均的な人生の歩み方に他なりません。

統計学的な平均には多くの価値があり、集団の傾向を掴むのに便利な指標です。しかし、それが個人を理解する場合に、そのまま当てはまることは稀ですし、別物と捉えた方が良いでしょう。

子どもたちは、個人個人が多様な価値観、多様な選択肢の中で、幸せというものを求めていくことになります。これからの時代は、ますますこの平均的な価値観が意味を持たなくなってくると感じます。

そうは言っても人間は、誰かとの比較を止めることはできません。自分の存在価値を比較によって確認しなければ気が済まない生き物だからです。平均というのはいかにも「中間」や「真ん中」のような気がし、自分を納得させるのには便利です。実際には、そんなラインはないのに、自分が平均だと分かればなんとなく安心できてしまうのです。

個性が大切、個性を伸ばそう!と言われて久しい今日。
でも未だに「個性」というものがはっきりとした輪郭を持たず、上手くいって社会的に成功したケースだけが、個性を活かした教育だと言われます。一方で、学校や社会では協調性を求められ、強い個性は和を乱すと嫌がられます。窮屈な思いをしている子どももいることでしょう。

世の中というのは多く場合、平均化された「普通」を期待しているのかもしれません。大きく平均から逸脱することは、扱いに困り敬遠され、あまり好ましくないと思われがちです。日本特有の同調圧力なのでしょうか。

インターネットやモバイル端末の普及により、誰もが多くの情報にアクセスできるようになった今、様々な価値観や考え方があることを、私たちは知っています。
私たち子育て世代は、インターネットのない時代に比べ、遥かにオープンで自由なマインドを持っているはずです。

平均主義的な考えに囚われず、新しい時代の子どもの可能性に目を向けたい。

【参考・引用・関連リンク】
『平均思考は捨てなさい』 トッド・ローズ(著) 早川書房

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