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母乳と人工乳(粉ミルク)の議論はいつも絶えません。世代によっても大きな意識の違いがあります。母乳の出ない母親にとってはまさに救いの手で、粉ミルクメーカーも出来るだけ母乳に近づけるように成分分析をし、栄養素などの改良を重ねてきました。
ここ最近になり、腸内細菌叢(腸内フローラ)に注目が集まるようになる中で、母乳についても細菌と深い関わりが明らかになってきました。母乳というものが動物としての人間にとって、一体どんな飲みものなのか見ていきたいと思います。
ビフィズス菌の定着
人間の腸内には、約100兆とも言われる細菌たちが住んでいます。その内、健康な人で約2割が、俗に善玉菌と呼ばれる乳酸菌です。ビフィズス菌は乳酸菌の一種で、このビフィズス菌が腸内で優勢になるのはヒトだけです。完全母乳の赤ちゃんのうんちは黄色く、酸っぱいにおいがしますが、これはビフィズス菌が多量に含まれているためです。赤ちゃんの腸内細菌は実に9割がビフィズス菌で占められています。
母乳には、新生児が通常分解できない乳糖やオリゴ糖が含まれています。なぜわざわざ赤ちゃんが直接栄養として利用できないオリゴ糖を含んでいるのでしょうか?それはビフィズス菌のエサとなるからです。さらに驚くことに、母乳には母親にとって老廃物である「尿素」も含んでいます。これも直接赤ちゃんのためではなく、定着する細菌たちのために窒素源を提供しているのです。
赤ちゃんの利益となる細菌に栄養を与えることで、必要な代謝機能を細菌から提供してもらい、更には悪玉菌が増殖しないように抑えこんでもらっていたのです。これにより感染症からも守られます。
母乳と人工乳(粉ミルク)についての比較のほとんどが、栄養素や利便性についてのものであり、含まれる細菌や細菌の定着についてまでは、あまり考慮されることはありませんでした。さらに言えば、母乳に含まれるビフィズス菌などの細菌が、赤ちゃんの免疫系の発達にどう関係し、将来にどんな影響が及ぶのかまで考える必要が出てきたのです。(※最近では、人工乳でも種々のオリゴ糖を添加してあります。しかし、ビフィズス菌の増殖などに大きな差があり、関係する代謝酵素の研究などが行われています。)
免疫発達に欠かせない物質が母乳に含まれていた
赤ちゃんに受動免疫を与える抗体が、母乳に含まれていることは以前から知られていました。抗体の受け渡しは哺乳類の場合、胎盤(臍帯)と初乳を通して赤ちゃんへ移行します。
それだけではなく、最近の研究では、免疫に関する信号伝達物質の情報も伝えていることがわかってきたのです。
私たちの身体の細胞を作っているのは、水分を除けば主に「タンパク質」です。筋肉や内臓、皮膚や髪はもちろん、体内の化学反応に必要な酵素や、身体の恒常性を保つホルモンもすべてタンパク質が必要です。生命を形作る基本物質と言えます。
遺伝情報が入っているDNA(デオキシリボ核酸)は、この様々なタンパク質の設計図です。しかし、タンパク質を作る場合、いきなりDNAからタンパク質ができるわけではありません。中間体としてRNA(リボ核酸)という存在が必要になります。
このRNAは言わば翻訳係で、DNAの情報から間違いなくその情報に基づいたタンパク質が出来上がるように、メッセンジャーとして情報を移し替えています。そして、RNAの中にはタンパク質にならないとても小さなRNAが存在し、ずっと役割を持たないゴミだと思われていました。それが2002年頃から、このゴミだと思われていた小さなRNAにも役割があることが分かってきたのです。この小さなRNAは「マイクロRNA(microRNA)」と呼ばれています。
マイクロRNAは、その種類によってどのような機能があるか特定できます。驚くべきことに、母乳中には、赤ちゃんの免疫系を発達させるマイクロRNAが多く含まれていたのです。免疫系の基礎となる腸に母乳を通して大量に届けられ、免疫系を活性化させていたのです。
この母乳中に含まれるマイクロRNAは、生後6か月程度で減少してしまうといいます。6か月と言えば、ちょうど歯が生え始め、離乳食を開始する時期です。おそらく約半年で赤ちゃんの免疫系を発達させ、感染症から赤ちゃんを守るとともに、食事として外部から母乳以外の食物を摂っても、栄養として取り込める状態にするためでしょう。
母乳は単なる飲み物ではない
このように細菌の受け渡しや、マイクロRNA、プレバイオティクス(細菌のエサになるオリゴ糖など)の提供など、微生物の活動と免疫機能の発達まで視野に入れると、もはや人工的に再現するのは不可能なのではないかと感じてしまいます。とくにマイクロRNAは、母親の遺伝子に基づくため、個人によって千差万別です。母乳は、赤ちゃんが生命として生きていく上で、必要とするものをミックスした飲み物であり、母から子へ引き継がれる「情報」でもあると言えます。
腸内細菌叢は指紋のように各人それぞれ違います。また住んでいる地域環境によって、共生する細菌の種類、量、割合など全く違ってきます。母親も自身の母親から細菌を引き継ぎ、そして免疫系を整えて生きてきたわけです。妊娠、出産、授乳と、一連の流れの中で、赤ちゃんの成長の基礎となる仕組みを提供しているのです。
こうなるともはや母乳は単なる飲み物・栄養源ではありません。その母親にしかできない赤ちゃんに対する成長への働きかけなのです。
母乳が出なくて苦しんでいる母親にとっては、つらい事実であるかもしれません。単なる飲み物・栄養源というだけではないという事実がわかってきた以上、そこまで深く検討する必要があります。少ししか出ない場合でも、完全に粉ミルクだけにせず、継続して授乳してあげることが良いと言えそうです。すぐに母乳をあきらめてしまうのではなく、離乳期までの半年程度は、少量であっても母乳を与え続けることが、腸内細菌叢の安定と免疫系の発達に役立つはずです。
また、授乳中には母子の絆を深める働きをするホルモン「オキシトシン」が盛んに分泌されます。
授乳という刺激がオキシトシンの分泌量を増やし、さらに母乳の分泌が促されます。あきめずに授乳を繰り返すことが、母乳の分泌量も増やしてくれるのです。またオキシトシンは血中だけでなく、脳内の産生量も増加し神経系へも影響します。これにより精神的に安定し、子育てのイライラの解消に繋がるといいます。(そうは言っても実際には、精神的に参る時もありますが。)
オキシトシンの作用は、母親側だけではありません。授乳中には赤ちゃんもオキシトシンを盛んに分泌しています。これによりソーシャルメモリー(他者との関わりに関する記憶領域)と言われる脳の部分が活性化します。この時期の脳への刺激が、のちの人間関係を築く時にも、役立っている可能性が十分に考えられます。社交性があるかどうかは、オキシトシンの分泌と大きく関わっているのです。
免疫の基礎を築くための仕組み
母乳育児推進派と人工乳推進派と、時代と世代間の価値観や科学の進歩、はたまた粉ミルクメーカーの広報活動などあらゆるところで、どちらがいいか議論があります。どちらが正しいか白黒つけようという議論にしてしまっては非常にもったいないと感じます。
人工乳すべてを否定している内容のものも目にしますが、これもまた偏りすぎた見方と感じます。当然、個人差がある問題であり、また女性の働き方や生活スタイルが変化してきている以上、現代に合わせたやり方で人工乳を利用することは、非難されることではないでしょう。最近では、海外でよく使われている「液体ミルク」を、日本国内でも販売できるように認可しようという動きもあります。子育てにも便利さが求められているというのは、現実的なニーズであることも理解しなければなりません。
しかし一方で、現代的な都合を優先し、人間の生物として備わった仕組みを無視してしまうような風潮は、生命進化の膨大な時間をあまりにも軽く見すぎているのではないかと憂慮されます。
人類は進化の歴史の中で、いかに子孫に必要な共生細菌を引き継ぎ、免疫系を鍛え調整するかに注力してきたはずです。育つ土地の環境で、手に入る食料も異なります。また細菌やウイルス感染といった脅威から、命を守らなければなりません。生き延びた個体の免疫系プログラムを、次世代に引き継いで来たのです。
妊娠中は、羊水の中で守られていますが、外界へ生まれ出た瞬間から、あらゆる脅威にさらされることとなります。できるだけスムーズに免疫系を調整しなければならないのです。まず産道を通る際に、母親の膣内分泌液によって膣内細菌を受け取ります。生まれた赤ちゃんの皮膚や腸管に細菌が一気に繁殖します。次に授乳を開始するとともに、ビフィズス菌といった有用な細菌を腸内に取り込み、さらに母乳に含まれるオリゴ糖などの糖類が、腸内細菌の増殖・安定に寄与します。そして免疫を発達させるのに必要な遺伝情報を持った「マイクロRNA」を、母乳を通して赤ちゃんに届けるのです。こうして生後、最も早い段階で免疫の基礎を構築していくのです。
母乳育児を掲げている産院であっても、その方針や指導、徹底ぶりには、大きな差があるのが現実です。特に初産の母親は、適切な指導を受けられなかった場合、つらい思いだけが残ります。乳首の含ませ方が不十分であったり、はずし方がわからなかったりと最初でつまずいてしまいます。その結果、乳首が傷ついてしまい授乳時に激しい痛みを伴ったり、乳腺炎になったりと、苦痛だけが残ってしまうのです。昔であれば、近くの子育て経験者が親身に教えてくれることもあったでしょう。しかし、核家族化が進んだ現代では、母親は一人で子どもに向き合うことが多くなっています。病院での適切な指導はもちろん、やはり周りの理解、協力が必須なのです。
今回の腸内細菌叢の安定や、免疫系の発達といった母乳の役割について、今後ますます議論がなされることを期待します。母親となる女性はもちろん、一般的な知識として広く世の中に認識される日が来てほしいものです。
今後、生物学や免疫学の視点からも、母乳とは何なのか、授乳とは何なのかということを捉え直す必要があるでしょう。単にカロリーや栄養素の問題だけではない、精妙な生命の仕組みがそこにあるのです。
【参考・引用・関連リンク】
『寄生虫なき病』 モイセズ ベラスケス=マノフ(著) 文藝春秋
『失われてゆく、我々の内なる細菌』 マーティン・J・ブレイザー(著) みすず書房
『腸を鍛える―腸内細菌と腸内フローラ』 光岡 知足(著) 祥伝社新書
NHKサイエンスZERO「がんも!老化も!?生命を操る マイクロRNA」
がんサポート「母乳の研究からマイクロRNAをがん診断に使うバイオマーカーの発想が生まれました 落谷孝広 × 鎌田 實」
https://gansupport.jp/article/series/series01/series01_01/13975.html
福井大学 生命科学複合研究教育センター 大嶋 勇成「母乳中 miRNA によるアトピー性疾患発症予防法の検討」
http://www.med.u-fukui.ac.jp/life/seimei/research/H25_seikahoukokusyo/oshima.pdf
「母乳によるビフィズス菌増殖の分子機構」(独)農業食品産業技術総合研究機構 食品総合研究所
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jslab/22/1/22_15/_pdf
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